2006年02月17日

モニュメント

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島を訪問してくれた友人を案内していて困るのは、真謝集落から下阿嘉への県道を走っている時である。「このコンクリートの柱は、何ですか?」と聞かれる。なんとも答えにくいので、この地域に伝説として残る(かもしれない)三羽の鳥の問答の話をお聞かせする。

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鷺「橋の橋脚だよ。」
烏「橋の橋脚であることは解るけれど、どうしてこの場所に立体交差が必要なんだ?」
鷺「立体交差ではなく、今の道を新しくするんです。」
烏「今の道で十分じゃあないか。」
鷺「勾配やカーブを緩和するために。」
烏「この程度の勾配、今時、荷馬車や、人力車で上がるわけでもあるまいし……。」
鷺「久米島マラソンの時、この坂道がきつくて、これがあるから、参加者が減る。少しでも平坦にしなければ、、、ああ、そうか、マラソンのコースはもう変更してしまったのか。」
烏「お金の無駄遣いじゃない?これまでの道でも通行に困ることはないのだから、今からでも、工事を止めたら、これ以上に税金をつぎ込まなくてすむよ。」
隼「工事のために、かえって、急カーブが増えて、通りにくくなったけれどね。」
鷺「県道だから、県が決めたことだから、ぼく、よくわからないよ。でも、今、工事を止めたら、建設会社が困るよ。それに、完成したときには、今よりも素晴らしい展望が開ける。」
烏「景色を見るだけならば、近くに展望台を作ったほうが安上がりではないか。それに、ドライバーが見とれて、ハンドル操作を誤り、車が道から飛び出したらどうする?」
鷺「展望台も造っているんだよ!それに、危険なら、防護用網を張ればいい。」
烏「金網越しの景色なんて最低だね。それから、台風の時、現在の道ならば徐行する程度で走行可能だけれど、これが、橋の上になると、危険防止のため通行止めになるのではないか?」
鷺「そのために現在の道も通行できるようにしておけばいいさ。」
隼「何年くらい前に計画着工され、何年に竣工するのかわからないが、完成した時には、真謝や登那覇公園からみた風景は、およそ自然の景観を売り物にしようとする久米島とは違った、本土や沖縄本島でよく見られるような近代的な風景に変身することだろう。」
烏「道の両側に林や松並木がある現在の道のほうが風情があっていいよね。久米島らしい。お金は、むしろ、その整備に使えば良かったのに。」

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隼「この事業を発案、提案した人、またはコンサル会社の名、それを決済した人の名、希望があるならば、賛成した人々の名を、橋脚にでっかく記してはどうだろう。とてもよい記念になると思います。」
鷺「ぼくは、このような工事(公共事業)そのものが必要だったのだとは思わないよ。住民の皆さんが必要だと言ったんじゃない?」
烏「住民の皆さんに聞いてみるといい。」
隼「以前、旧仲里村時代に、役場のロビーに、この橋の名前を募集することがあったが、あれは今でも継続して公募中なのだろうか。台風の時には、道路に降った雨が、橋の上からひげのように吹き揚がることから、『阿嘉のひげ道』と名付けられるかもしれない。観光名所が、また一つ増える。」

 三羽の鳥は、ぼそぼそと話をしただけで、それ以上は当たらず触らず、それぞれのお家に帰っていった。
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2006年01月09日

「山中橋」または「サバチ橋」

 先に引用した、仲村昌尚氏の『久米島の地名と民俗』を見ていて、一つの疑問が解けたような気がした。県道の山城から真我里と間に、「山中橋」という橋があるが、どう見ても山の中とは思えない。字山城から、県道を少し蛇行しながら降りてきて平坦な地に入ったところに、その橋はある。近所のおじさんにその橋のことを聞くと、「山中橋?ああ、サバチ橋な、、、」と答える。以前は「サバチ橋」と呼んでいたそうだ。それが、山の中でもないのにどうして「山中橋」と呼ぶようになったのか。

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 仲村氏の同書「サバチバシ」の項には、およそ次のようなことが書かれている。
 謝名堂、比嘉、真我里、3つの集落の後方はかつて沼地が多く、排水不良で、農作物に与える被害が多く、農民を悩ませていた。そこで農民は、力を合わせて、集落前方へ排水溝を設けることにした。サバチ橋が架かっている場所も、村人たちが協力して大きな水捌(さば)きの場所を作ったことに因んでサバチと称され、その水捌きの上に架けられた橋ということでこの橋をサバチバシと呼んだのであろう。サバチ橋の欄干には「山中橋」ときざまれている。これは昭和45年6月、山中総務長官一行が久米島視察に来島したことに因んで命名されたようである。しかし、ここは本来サバチバシであり、古えより呼び続けられた名前こそ、地域の人々には馴染深いものである。云々。
 なるほど、たとえば、昨年(2005年)小池沖縄担当大臣が日帰りで久米島視察にみえたが、今建設中の島尻へ行く道、銭田川にかかる新しい橋が完成したとき、「小池橋」とでも名付けるようなことと同じ事由か。山中さんが、自分の名前を橋に付けなさいと言ったのか、それとも、行政のほうで、彼の功績を称えて、「つけさせていただいた」のか、その経緯は、当時の行政記録を見ればわかるであろう。もしもそれが残されていればの話だが。

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 もし、山中さんが久米島に多大な功績を残したというのなら、顕彰碑でもたてて、橋の名改名の次第を書き連ねるべきだし、そうでなく、単にご機嫌取りのものであったとしたら(そんなことはないと思うが)直ちに、元の名前に戻すべきであろう。島の地勢と、島民の汗と工夫の結晶が、地名・橋の名として残ってきたのだが、それが政治上の理由で、ころっと変わってしまったとしたら、とても悲しい気がする。本当はそうではないのよという話を、誰か教えてくれませんか。

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 小さな橋一つにも、島の歴史が凝縮されている。「サバチ橋」の名前を覚えている方々が健在のうちに、もとの名前にもどし、なぜ「サバチ橋」というかの説明版を設置する、そうすることが、若い人たち、子供達に郷土の成り立ちを教え、郷土を愛する気持ちを育てることになるのではないだろうか。

付記

 『久米島町議会だより』のバックナンバーを見ていたら、平成14年(2002年)12月定例会(12月16日)において、仲原健議員から、「山中橋」を元の「さばち橋」に戻すべきだと思うという内容の質問がなされ、それに対して、高里町長が、「さばち橋」として歴史に残るような橋であれば、関係機関と協議しながら検討していきたい、と答弁している(久米島町議会だより第3号2003.4.1)。
 それから3年間の間に、関係機関と協議してきて、現在の状況に至ったものと思うが、この間の協議記録を見てみたい気がする。
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2005年12月23日

スカイホリデー・リーフ

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 そういう名前のリーフが、かつて久米島にあった。30年ほど前に久米島に来たとき、島の人たちは、そのように呼ぶように努力していた。年配の方々ならば、「そう呼んだことがあったかもしれない」と思い出すかも知れない。当時の新聞には次のようにある。
 『久米島の東奥武先に広がる広大なリーフと砂丘ー。久米島一の景観を誇りながらこれまでこの砂丘には呼び名がなかったが、さる28日、仲里村イーフビーチで、久米島観光協会(山元暁会長)の主催で命名式が行われ「スカイホリデー・リーフ」と命名された。
(中略)この観光振興計画には全日空も全面協力する意向で、命名されたリーフ名も全日空の「スカイホリデー」旅行にちなんだもの。(後略)』(昭和51年7月6日 琉球新報)
同記事の末尾は『久米島の昨年の観光客は約12,000人。うち本土観光客は1割の約1,200人−という状況から、地元の期待はかなり大きい。』と結ばれ、これをきっかけに久米島の観光地化が促進された。全日空が大々的に宣伝活動を展開したこともあり、観光客は大幅に増えはじめ、10年後リゾートホテル久米アイランドが開業する昭和61年ころには、約8万人となる。だが、この新聞記事はちょっとおかしい。
 仲村昌尚氏の『久米島の地名と民俗』を見ると、確かに、イチュンザからウガン崎まで、長さ約10kmのリーフ(珊瑚礁)には、個々特定の場所の名称はあるものの、全体としての呼称はなく、ただ「リーフ」としている。しかし、その南側にある、砂が堆積した砂洲には、西の浜、中の浜、ウーユニ、ヘーヌ浜、ハテの浜などという呼称があり、それ以前から島の人たちは、そのように呼んでいたし、そのように聞いたことがある。
 あのときの命名は、あの一帯のリーフや砂洲などを総称して「スカイホリデーリーフ」としたのか、それとも、リーフ部分のみをそう呼ぶようにしたのか定かではないが、古くから言い伝えられてきた地名をなかったことにしてまで、観光振興のために努力する人たちの、涙ぐましい努力には脱帽する思いである。
 しかし、地名は、先人が残してくれた立派な遺産であり、目には見えないけれど貴重な文化財である。名前のないところに新しい名称を付ける場合は、さほど問題もないと思うが、昔からある地名や橋の名を、その時々の事情で改変する場合には、後々のことまで考えてからにしたほうが良いであろう。巨大資本の力を借りて、島を全国的に有名にすることは一策であるかもしれないが、それによって失われるかもしれない何かについても思いを巡らす必要がある。
 幸か不幸か、今日、あの一帯のことを、誰も「スカイホリデー・リーフ」とは呼ばず、昔ながらの名称「ハテの浜」と呼んでいる。そしてそこは、久米島でも観光の一番の目玉となっている。(文中の琉球新報の記事は、『仲里村史第5巻「新聞集成」』による。)

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2005年12月06日

軍道

字兼城の長井商店の横から、だるま山園地を通り、自衛隊のゲートに至る道は、「自衛隊道路」と呼ばれているが、かつては「軍道」と呼ばれていた。米軍占領下の1950年代、宇江城にレーダー基地が建設されるときに造られた道だという。

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 この道は、島の他の道とはその趣きを大きく異にしている。今はサトウキビ畑になっているが、昔は水田であったことがすぐ分かる階段状になった畑地を、突っ切るように島の中央に向かって、蛇行しながら延びている。途中、ショーキズイセンやヒカンザクラの咲く旧米軍滑走路を直進し、だるま山園地からは、両側から覆いかぶさる木々のトンネルの中を、ほどよく右左のカーブを切りながら高度をかせいでいく。

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 車が一台すれ違うことができるほどのアスファルト舗装道であるが、その両側には、広い所で2mくらいのたっぷりとした草地があり、どんなに激しい雨が降ってもその水を引き受けられそうな大きなV字型の側溝が造られている。
 当時は、コンクリート製U字型側溝なんてなかったからこういうV字側溝を造ったのだと思うが、今にして思えば、これくらい自然に配慮したものはないだろう。この溝に落ち込んだ小さな生き物たちも、ちょっと頑張れば自力でよじのぼることができる位の傾斜だ。この側溝をよく見ると、道の登り始めからしばらくの間は、改修されたときに替えられたと思われる30cm平方のコンクリート製の平板が使われているが、だるま山園地の前あたりからは、安山岩(一部サンゴ石)の平たい石を並べて造られている。こんなに多量の平たい石がどこにあったのか。どこから持ってきたのだろうか。
 この道が造られた当時、1951年から52年に基地に勤務していたジョン・エバートンさんは、宇江城山頂から大量の石を運び出し、クラッシャー(砕石機)で砕いて、道路を造るのに使ったと、メールで教えてくれた。工事中、長雨が続いて、ブルトーザーの座席を越えるような水がたまり、1週間くらい作業が中止したことを、鮮明に覚えているという。つまり、宇江城城址の石垣の石が、道路の基礎部分に使われ、一部が、平石のまま、側溝にも使われたと考えられる。宇江城城址の石垣を崩して基地の建設に使ったという話は、他からも聞いたことがある。宇江城城址が、手つかずの状態で残されていたなら、復元作業は、もっと簡単にもっと早く進められていたことだろう。残念なことである。

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 それはともかく、久米島をドライブするとき、この道は、島の自然の奥深さを満喫できるもっとも気持ちのよい道の一つだ。今は、自衛隊のゲートで通行止めとなっているが、宇江城城址とつなぐことができたら、ただ通過するだけの「道」ではなく、それ自体を楽しむ良い観光道路になるに違いない。1972年の復帰の時、基地は米軍から自衛隊に移管されたが、その際、道1本をフェンスの外に残すことができたら良かったなあと思う。まあ、当時の(現在も同じ)沖縄が置かれた状況を考えると、全く実現性のない話だと思うけれど。
 憲法が改変されて、「自衛隊」が「自衛軍」になったとき、この道はまた「軍道」と呼ばれるようになるのだろうか。そんな日が、あれよあれよという間にきてしまうような気がする。
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2005年11月23日

島地の森(3)

このダムの堰堤上の道を通り、突き当たったところに、小高い丘がある。その上には東屋があって、公園風になっている。偽木で作られた階段は急なうえ雑草で覆われていて、登るのに大変難儀するが、ここからの眺めも素晴らしい。

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この丘は、ダムをつくるとき出た土砂を積み重ねて人工的に作ったものだそうだ。なんの為に、こんな場所にお金をかけてどこも見えない展望台を作ったのかと、疑問の声も聞かれる。以前、私も、宇江城城跡に登って、足下に見える森の中の、赤い東屋の屋根を発見したとき、あそこへはどうやって行くのだろう、どんな景色が展開するのだろうと不思議に思ったりした。が、実際にここへ来てみると、この展望台を発案した人と、その計画を実施した人の深慮遠謀に脱帽する。

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 この展望台からは、背後にあるレーダードームと宇江城城址を別にすれば、この名無しの湖と島地の森しか見えないのだ!海に囲まれた久米島では、小高い丘に登れば、どんな場所からも海が見えるだろうと人は思うかも知れない。しかし、ここからは、海が見えないのだ。どこまでも続く緑の森に、ひっそりとたたずむ「名無しの湖」。北海道やカナダのような広大な地域でしか見ることのできない風景が、この狭い離島の中で演出されている。行政のやることはすごい。(たぶん、県や国の事業だからついでに乗せてしまえとか、予算が余ったので仕方なく作ったなどというのではないでしょう。)

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 やはり久米島は大陸なのだと実感(錯覚?)したとき、識名園の勧耕台を思い出した。琉球王朝時代、中国からの冊封使を識名園に案内して、高台からの風景を見せた。琉球をちっぽけな国と思っていた使いは、海がまったく見えない大陸のような光景を見せられたので、琉球も広大な国土を有していると思ったそうだ。今日のように精密な地図もなく、ましてや飛行機で上空から見るということもない時代のことだから、このようなたくらみが成功したのだろうと思うが、武力もなく資産も乏しい琉球という小さな国が、知恵によって大国と渡り合ってきたことのたとえに引き出される話だ。
 久米島も、金をかけてハコモノを作り観光客を誘致するのではなく、自然という資産や今ある建物を保持・活用するなど、「知恵」で勝負してみてはどうか。そうすれば、必要以上に、子や孫に借金を残さないですむと思う。この展望台も「観湖台」とでも名を付けてお披露目すれば、たちまち良い観光スポットになるだろう。この名もどこかにありそう。今は人が来ないので閑古鳥が鳴く、閑古台と呼ばれてしまうかもしれない。
 名前を付けること(ネーミング)と観光とは深い関係があるということを島の人たちはよーく知っているはず。「お化け坂」なんて、新しく作られた道の、なんということない坂だったものが、名前を付けたとたん、久米島の主要な観光地となり、わナンバーの車が押しかけるようになったではないか。(化かされた気がしないでもないけれどね。)
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2005年11月10日

島地の森(2)

「島地の森散歩道」のアスファルトの道を10数分歩くと、左側に湖が見えてくる。この湖には、名前がない。島の人たちは、「白瀬二号ダム」と呼び、地図にもそう書かれているが、ダムというのは、河川を堰き止めた堰堤、あるいはシステム全体をいうのであり、たまった水の部分は、ダム湖または「なになに湖」「なになに池」というのが普通だ。たとえば、久米島でいえば、タイ原池、ヤンガーイチ、フサキナ池、儀間池など。湖や池としての名前がなく、ダムとだけされているのは、このほか、白瀬一号ダム、それに最近完成したカンジンダムなどだけれど、この湖は、池というより、○○湖というにふさわしいくらいの風格と雰囲気を備えている。
 湖の一番のビューは、取水用のポンプ室と思われる建物がある場所から見る景色だ。広大な緑の森に囲まれて静かに眠る湖、深い山間にひっそりと静まりかえる湖、と見えなくもない。正面の山の上には、自衛隊のレーダードームが見え、その右手には、宇江城城址も見えるが、これもアクセントになって良い。風によって湖面が波立ち、空行く雲によってその色が移り変わる。音といえば、鳥のさえずりと蝉の鳴き声、そして、木の葉をゆらす風の息吹。ほかには、何も聞こえない。長い間見ていても飽きない風景だ。
 写真に撮ろうとすると、建物が邪魔になるけれど、作られた目的がダムなのだから文句は言えない。屋上を展望台にでもすれば、さらに広がりのある素晴らしい景色が展開するだろう。「望岳台」なんて名前をつけたりしてね(どこかに有りそうな名前だけれど)。
 最近のように降水量が少なくて干上がってしまい、湖でなくなることを見越して、名前を付けなかったわけではないと思うけれど、それにしても、これだけの観光スポットとなりうる場所に名前がないというのは可哀想。
だれかこの湖に素敵な名前を付けてあげてください。
(写真は、2004年6月に撮ったものです。)

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2005年11月02日

島地の森(1)

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 ダルマ山園地のはずれ、自衛隊基地へと続く道の右側に、「島地の森散歩道」と書かれた看板があって、右のアスファルトの道を少し入ったところにゲートがある。このゲートは通常は閉じられていて、入るときには、ゲートの両側から、多少の後ろめたさと、禁を破るある種の快感を重ねたなんともいえぬ気持ちですり抜けるのだけれど、最近は、なぜか開いている。もっとも、この道の手前の駐車場の奥からも入ることができるが。

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 ここには、かつて自然の森だったところを切り開いて作った遊歩道があるのだが、雑草が生い茂って元の状態にもどりつつある。よく見ると、草や枯葉の下には幅2mほど砂利が敷かれてあり、偽木で作った縁石も見つけることができる。蜘蛛の巣を払い、足で道を探り、雑草をかき分け、センダングサの種をズボンに付けながら、左に曲がって、数段の階段を下りて少し行くと、ゲートから続くアスファルト道に出る。より自然に近い状態で、森の散策を楽しめるように演出しているに違いない。行政もなかなかやるなあと思う。

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 「散歩道」であるのに、アスファルト舗装しているのは、ちょっといただけないが、私は、この道が好きだ。数年前、偶然ここに来たのだが、小規模な土木工事をしていた。何をしているのか見てみると、それまであったU字型側溝を、皿型側溝に付け替える工事をしていたのだ。森の小さな生物が側溝に落ちてもはい上がれるようにという配慮、これは、素晴らしい工事だと思った。このような皿型の側溝は、もう少し深みのあるものを北海道の公園の中の道で見たことがある。このように自然に配慮した道は、久米島では、ここだけだ。島中の幹線以外の道を、このように変えたなら、多くを語らずとも、島に住む人々の優しさを表現することができるのに。第一、不器用な私が、車を走らせるとき、草で覆われたU字側溝に車輪を落とさないようにと気を遣わずに済む。
両側から木々が生い茂り、緑のトンネルを造っているアスファルトの散歩道。本島北部、やんばるの森を思わせるこの道を、チョウと戯れながら10分ほど歩くと、左の木立の間から湖が見える。ここが島であることを忘れる風景だ。

【追記】
11月3日の夕方、また「島地の森散歩道」に行ってみると、ゲートはいつもの通り、閉まっていました。やっぱり、入ってはいけなかったのかなあ・・・。

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2005年10月24日

ショーキズイセンにトラロープは似合うか

 島にいると驚かされることが多々ある。ダルマ山の旧米軍滑走路跡の道を車
を走らせていた時、右側の木立の下が、黄色いじゅうたんを敷き詰めたように
なっていた。車を止めて近寄ってみると、ヒガンバナのようだ。久米島のヒガ
ンバナは、黄色なのかと驚いた。あとで聞くと、それがショーキズイセンで
あった。毎年、10月の盛りの時期を心待ちにし、このみごとな風景を写真に
撮ったり絵に描いたりして楽しんでいた。
 今年は、また驚かされた。道と群落との間に一本のロープが張られていたの
だ。無断伐採・採取を禁止するという内容の強い口調で書かれた看板も何カ所
かに立てられ、景色を分断していた。今年は、よほどひどく踏み荒らされたの
か、それともひどい盗伐があったのだろうか。
 ここのショーキズイセンは、自然発生したものではなく、人工的に植栽され
たものと聞く。しかし、それがヒカンサクラの木々の間に、勝手に広がって咲
いているようで、まるで自生したように見える、それがいいと思っていた。人
界と植物界が一体化しているようで、とても自然に思われた。
 ロープで切り分けられた風景は無粋で、どうも写真にならない。いい写真を
撮ろうとしたら、どうしてもロープ内に入りたくなる。そんな時のロープの意
味はなんなのだろう。念のため、予防のためだとしたら、「人を見たら泥棒と
思え」と言われているようで、とても寂しい。昨年までも時々、写真を撮る人
が、群落の中に入っているのを見かけたことがあるが、咲いている花やこれか
ら出ようとしている芽を踏まないように、注意深く動いていたように思う。花
の1本や2本踏まれてもまた生えてくるさ、1本2本盗まれても、また植え
りゃあいいさという言い方をすると、大抵、「みんながそう思ってそうした
ら、絶滅してしまう。だから多くの人が楽しめるように、一定のルールを作る
のだ」という人が出てくる。それは、間違ってはいないと思う。たぶん、正し
い意見でしょう。
 マ、いいか。久米島の人たちは大陸的で鷹揚な性格の人が多いから、ロープ
ぐらい張っても張らんでもどちらでもいいと言うことでしょう。
 私は、ショーキズイセンとトラロープを見ながら、長田弘さんの詩の一行を
思い出した。
 <ひとのいちばん大事なものは正しさではない>

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2005年10月15日

ー久米島大陸 発見!ー

 島に来てくれた友人を案内して島を巡ると、「久米島は意外と大きいですね」とか
「思ったより広いですね」と言われることがよくある。私は得意げに、「そうですよ。
私は、久米島大陸と呼んでいます。」と答える。
 周囲54kmの離島を、大陸と称するのは、オオゲサなと思われるかも知れないが、
大きい小さいは、個人の感覚の相違、私は「デカイ!」と感じる。

 しかし、感覚だけではなく、実際に久米島は大陸である(であった)のだ。
<日本では久米島にしかいない水棲のヘビ、キクザトサワヘビが、中国やフィリピンな
どの山岳部にも飛び石状に生息していることが、昔、中国と陸続きであったことの生き
証人である>などと書かれた書物を読んだときは、さほど感銘は受けなかったが、知人
と、儀間集落の北方の山間に入り、儀間池近くの切り取られた地層の中から、大小ウズ
ラの卵ほどの丸い石をたくさん見つけた時には、こりゃ何だ?と思った。近くに大きな
川もない島の山間部から、大河の河口近くで見られる玉砂利のような石が、ぽろぽろ出
てくるのだ。久米島で最大の川、白瀬川は、全長5.3km、石のかどを摩耗させてこ
のような丸い石を作るほどの長さも流速もない。これらの石は、どうやってできたのか、
彼の説明によると、かつて久米島は沖縄の他の諸島と一緒に中国大陸と陸続きであったが、何度かの浮沈を繰り返して、現在のような島となった。
これらの石(チャートと言う)は、数百万年前、大陸と繋がっていたころ、大きな河が
流れていた証拠だという。

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 昔、このあたりを河口近くとする大河があっとすると、その河は、何という河である
か。地図を拡げて北西に指をずらしていくと、その線は、長江(いわゆる揚子江)につ
ながる。そうか、東シナ海がかつて陸地であった時、長江は、上海を河口とするのでは
なく、さらに流れて久米島を通り、南西諸島の東側で、太平洋に注ぎ込んでいたという
ことか。久米島を含む南西諸島は、ユーラシア大陸の東端の一部であったのだ。
 この小さな丸っこい石をいくつかポケットに入れたとき、大陸を自分の手中に収めた
ような感じになり、気持ちはとてつもなく大きくなった。

私の「久米島大陸」発見の瞬間!
 

 久米島に移り住んでから、4年半ほど過ぎた。カメラやスケッチブックを片手に、暇
さえあれば、あちこち出歩いているのだが、いまだ足を踏み入れていない場所や道がたくさんある。この先、どれくらいこの大陸を探検することが出来るか知らないが、ここで
展開するさまざまな出来事や様子などを、心のおもむくまま、記してみよう。
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Mr.Gという人は・・・・

1946年7月北海道生まれ。長いこと神奈川に住んでいたが、4年半前、久米島に移り住む。肩書きを持たない生活をしたいなんて思っていたら、本当にそうなっちゃった。
良い人間関係は、肩書きを意識しないところから始まる。そんな気持ちの良い人間関係の中で、残された<生>の時間を、物やお金に振り回されないで過ごしていきたい。


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