2005年12月23日

スカイホリデー・リーフ

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 そういう名前のリーフが、かつて久米島にあった。30年ほど前に久米島に来たとき、島の人たちは、そのように呼ぶように努力していた。年配の方々ならば、「そう呼んだことがあったかもしれない」と思い出すかも知れない。当時の新聞には次のようにある。
 『久米島の東奥武先に広がる広大なリーフと砂丘ー。久米島一の景観を誇りながらこれまでこの砂丘には呼び名がなかったが、さる28日、仲里村イーフビーチで、久米島観光協会(山元暁会長)の主催で命名式が行われ「スカイホリデー・リーフ」と命名された。
(中略)この観光振興計画には全日空も全面協力する意向で、命名されたリーフ名も全日空の「スカイホリデー」旅行にちなんだもの。(後略)』(昭和51年7月6日 琉球新報)
同記事の末尾は『久米島の昨年の観光客は約12,000人。うち本土観光客は1割の約1,200人−という状況から、地元の期待はかなり大きい。』と結ばれ、これをきっかけに久米島の観光地化が促進された。全日空が大々的に宣伝活動を展開したこともあり、観光客は大幅に増えはじめ、10年後リゾートホテル久米アイランドが開業する昭和61年ころには、約8万人となる。だが、この新聞記事はちょっとおかしい。
 仲村昌尚氏の『久米島の地名と民俗』を見ると、確かに、イチュンザからウガン崎まで、長さ約10kmのリーフ(珊瑚礁)には、個々特定の場所の名称はあるものの、全体としての呼称はなく、ただ「リーフ」としている。しかし、その南側にある、砂が堆積した砂洲には、西の浜、中の浜、ウーユニ、ヘーヌ浜、ハテの浜などという呼称があり、それ以前から島の人たちは、そのように呼んでいたし、そのように聞いたことがある。
 あのときの命名は、あの一帯のリーフや砂洲などを総称して「スカイホリデーリーフ」としたのか、それとも、リーフ部分のみをそう呼ぶようにしたのか定かではないが、古くから言い伝えられてきた地名をなかったことにしてまで、観光振興のために努力する人たちの、涙ぐましい努力には脱帽する思いである。
 しかし、地名は、先人が残してくれた立派な遺産であり、目には見えないけれど貴重な文化財である。名前のないところに新しい名称を付ける場合は、さほど問題もないと思うが、昔からある地名や橋の名を、その時々の事情で改変する場合には、後々のことまで考えてからにしたほうが良いであろう。巨大資本の力を借りて、島を全国的に有名にすることは一策であるかもしれないが、それによって失われるかもしれない何かについても思いを巡らす必要がある。
 幸か不幸か、今日、あの一帯のことを、誰も「スカイホリデー・リーフ」とは呼ばず、昔ながらの名称「ハテの浜」と呼んでいる。そしてそこは、久米島でも観光の一番の目玉となっている。(文中の琉球新報の記事は、『仲里村史第5巻「新聞集成」』による。)

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2005年12月06日

軍道

字兼城の長井商店の横から、だるま山園地を通り、自衛隊のゲートに至る道は、「自衛隊道路」と呼ばれているが、かつては「軍道」と呼ばれていた。米軍占領下の1950年代、宇江城にレーダー基地が建設されるときに造られた道だという。

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 この道は、島の他の道とはその趣きを大きく異にしている。今はサトウキビ畑になっているが、昔は水田であったことがすぐ分かる階段状になった畑地を、突っ切るように島の中央に向かって、蛇行しながら延びている。途中、ショーキズイセンやヒカンザクラの咲く旧米軍滑走路を直進し、だるま山園地からは、両側から覆いかぶさる木々のトンネルの中を、ほどよく右左のカーブを切りながら高度をかせいでいく。

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 車が一台すれ違うことができるほどのアスファルト舗装道であるが、その両側には、広い所で2mくらいのたっぷりとした草地があり、どんなに激しい雨が降ってもその水を引き受けられそうな大きなV字型の側溝が造られている。
 当時は、コンクリート製U字型側溝なんてなかったからこういうV字側溝を造ったのだと思うが、今にして思えば、これくらい自然に配慮したものはないだろう。この溝に落ち込んだ小さな生き物たちも、ちょっと頑張れば自力でよじのぼることができる位の傾斜だ。この側溝をよく見ると、道の登り始めからしばらくの間は、改修されたときに替えられたと思われる30cm平方のコンクリート製の平板が使われているが、だるま山園地の前あたりからは、安山岩(一部サンゴ石)の平たい石を並べて造られている。こんなに多量の平たい石がどこにあったのか。どこから持ってきたのだろうか。
 この道が造られた当時、1951年から52年に基地に勤務していたジョン・エバートンさんは、宇江城山頂から大量の石を運び出し、クラッシャー(砕石機)で砕いて、道路を造るのに使ったと、メールで教えてくれた。工事中、長雨が続いて、ブルトーザーの座席を越えるような水がたまり、1週間くらい作業が中止したことを、鮮明に覚えているという。つまり、宇江城城址の石垣の石が、道路の基礎部分に使われ、一部が、平石のまま、側溝にも使われたと考えられる。宇江城城址の石垣を崩して基地の建設に使ったという話は、他からも聞いたことがある。宇江城城址が、手つかずの状態で残されていたなら、復元作業は、もっと簡単にもっと早く進められていたことだろう。残念なことである。

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 それはともかく、久米島をドライブするとき、この道は、島の自然の奥深さを満喫できるもっとも気持ちのよい道の一つだ。今は、自衛隊のゲートで通行止めとなっているが、宇江城城址とつなぐことができたら、ただ通過するだけの「道」ではなく、それ自体を楽しむ良い観光道路になるに違いない。1972年の復帰の時、基地は米軍から自衛隊に移管されたが、その際、道1本をフェンスの外に残すことができたら良かったなあと思う。まあ、当時の(現在も同じ)沖縄が置かれた状況を考えると、全く実現性のない話だと思うけれど。
 憲法が改変されて、「自衛隊」が「自衛軍」になったとき、この道はまた「軍道」と呼ばれるようになるのだろうか。そんな日が、あれよあれよという間にきてしまうような気がする。
posted by Mr.G at 09:51| Comment(0) | TrackBack(0) | よもやま話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする